大坂屋史料

銅吹由来鋳銭場絵巻

<全幅11m全絵柄の再現>
<全幅11m全絵柄の再現>
24cm × 11m × 27cm
宝暦年間
官浪辰夫 所蔵(以下すべて同)
秋田藩における銅から銭をつくる鋳銭場の作業を描いた11メートルを超える長大な絵巻物。銅運送、表門、大吹銅割場から銭納、銭舞台に至る二十五に渡る情景が鮮やかに描かれている。大坂屋当主は六代屋久左衛門智清。

大坂屋炭屋町図面

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63.5cm × 44cm
江戸時代
大坂屋久左衛門の本宅絵図。敷地の大きさは南北40間(80m)、東西25間半(51m)。西は炭屋町筋、北は鰻谷筋、南は大宝寺町筋に面し一区画すべてが敷地となっていた。

秋田篭山吹屋絵図

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JPGファイル:84KB
63.5cm × 44cm
宝暦3年(1753)
秋田藩では南蛮絞の技術を用いて銅に含まれる銀の抽出を計画した。秋田藩では初期には平賀源内を招聘したが失敗し、大坂屋により銀絞は成功する。敷地は間口42間(84m)、奥行き62間(134m)の敷地に南蛮床50、灰吹床15という大規模なものである。

大坂釜屋町図面

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JPGファイル:108KB
48.5cm × 50cm
天保14年(1843)10月16日
大坂屋から銅座役所に対して提出された釜屋町大坂屋の屋敷の絵図。釜谷町は道頓堀川と西横堀川が交差するあたりにあり、屋敷は表間口13間(26m)、奥行20間(40m)であった。
大坂屋当主は九代駒太郎清憲。

釜屋町先之図面

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JPGファイル:84KB
82.5cm × 40cm
江戸時代
大坂屋から銅座役所に対して提出された大坂屋釜屋町の屋敷の絵図。

銅吹由来書

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JPGファイル:96KB
17.3cm×24.5cm 314頁
江戸時代
大坂の銅吹屋の由来を纏めた記録。写真頁では古来銅吹屋として泉屋(住友)吉左衛門、大坂屋久左衛門らの名前が記載されている。

荒銅吹銅勘定書

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30cm × 23.2cm 22頁
安永2年(1773)
永松(山形県)・生野(兵庫県)・明延(兵庫県)などの全国の銅山から送られてくる荒銅を精錬した際の数量の勘定帳。受入れ先の銅山、受入日、精錬が出来上がった日が記載されている。大坂屋当主は七代久左衛門清冨。

羽州新庄領永松銅山運上金証文

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JPGファイル:40KB
元文4年(1739)12月10日
大坂屋が6ヵ年で1万5千両の運上金を納めることで出羽新庄藩の所有する永松銅山の経営を請け負うという証文。大坂屋は全国の各藩と契約して銅山経営を行なった。大坂屋当主は六代久左衛門智清